企業には金融資産や株主資本など財務的な資本に加えて、技術や知的財産などさまざまな価値がありますが、近年企業価値の判断基準として人的資本が注目されています。
人的資本は企業の人材を資本と捉えたもので、人的資本を高めることが企業価値の向上につながります。また、一部の企業には、人事資本の開示を行う義務があるため、人事制度の見直しを行う企業も増えているのです。
この記事では、人的資本経営の開示の概要をはじめ対象となる企業、開示が義務化された項目の具体的な開示方法などについて詳しく紹介します。
目次
人的資本の情報開示とは、従業員を「付加価値を生み出す資本」とみなしたうえで、人材や人材が持つ知識や技能、意欲などを対外的に公開して企業の価値創造プロセスにおける人的資本の重要性を明らかにする取り組みです。
人的資本とは、倫理観や協調性、リーダーシップ、知識、技術、技能など企業の付加価値を生み出すために必要な要素のことです。優秀な人材の育成を投資と考えた場合、従業員の成長のために行う具体的な取り組みを数値化し、ステークホルダーに示すことで、中長期的な企業価値を高めているのです。
人的資本の開示は、ISO(国際標準化機構)に規定されているほか、国内でも指針をもとに開示が義務化されていて、投資家やステークホルダーが企業の人材戦略や取り組みを評価するために重要な情報だと言えます。
人的資本経営の開示義務化とは、企業が従業員に関する情報を一定の基準に基づいて公開することです。人的資本は、財務情報ではないものの、有価証券報告書に開示義務がある場合があります。人的資本経営の開示は、企業の透明性を高め、投資家やステークホルダーが企業の人的資本に関する取り組みを適切に評価できるようにすることを目的としているのです。
人的資本の開示は、現在開示が義務化されています。2022年に国が「人的資本可視化指針」(※参考①)を示し、その後2023年3月期決算以降の有価証券報告書では、対象となる企業に人材投資額や社員満足度などの情報の盛り込みが求められているのです。
日本は、国内総生産(GDP)に対して、能力開発費の割合が米欧に比べて低いとされています。人的資本の開示を義務化することで、人への投資が企業の本質的な価値を高め、新たな資本主義の柱になることが期待されているのです。
有価証券報告書については、金融商品取引法第24条に定められています。そのうち人的資本の情報開示の対象となるのは有価証券報告書を発行している大手企業で、条件を満たす企業の数は約4,000社です。対象企業は「サステナビリティに関する考え方及び取組」という項目で人的資本の報告を行います。
そのほか、以下のような企業でも人的情報の開示を行うケースが増えてきています。
日本の証券取引所に上場している企業に人的資本の情報開示義務がある背景には、企業の透明性を高めて持続可能な成長を促進し、投資家やその他のステークホルダーに対する信頼性を確保する目的があります。
企業は、人的資本の情報を開示することで、自社の労働環境を客観的に評価できます。必要に応じて改善を行えば、従業員の満足度や生産性の向上につながります。
また、企業の透明性が高まり、社会的責任の順守状況が明確化すると企業ブランド向上がずれます。さらに、人的資本に関するポジティブな情報を開示すれば、優秀な人材の採用や従業員の離職率低減の効果も期待できます。
一定規模以上の非上場企業も人的資本の情報開示の対象です。非上場企業は株主が限定されていることが多く、上場企業と比べると外部からの監視や規制が少ない傾向があります。しかし、企業の規模が大きければ、多くの従業員を抱えているなど、上場企業と同様に地域経済や社会に対して大きな影響を与える存在です。そのため、ステークホルダーに対する透明性やアカウンタビリティが重要です。
また、以下のような法律遵守の観点からも人的資本の開示が必要です。
特定の業界に属する企業は、規制当局の指導や業界団体のガイドラインに基づいて、人的資本の情報開示を行うことが求められる場合があります。
例えば、金融機関や公共事業は、高度な専門性と倫理規範が求められる分野であり、多くの人々の生活に直接影響を与える存在です。人的資本の情報開示を行うことで、企業が適切に運営されていることを示し、公共の利益の保護や信頼性を向上させることにつながります。
一例として、以下のような指針が公開されています。
国際的な活動を行う企業は、各国の規制や国際基準に従い人的資本に関する情報開示を求められる場合があります。グローバルに事業展開している企業の場合、国や地域ごとに異なる多様な法規制やビジネス慣習、従業員の信教などに配慮しなければなりません。
人的資本の情報開示により、グローバル視点でのベストプラクティスが取り入れられるほか、異なる文化や規範に対する理解や対応を各国のステークホルダーに明示できます。また、ISO30414(人的資本に関する情報開示のガイドライン)をはじめIFRS(国際財務報告基準)、SDGsなどの国際的なガイドラインや基準に対応することで、国際的な競争優位性が強化されます。
ESGは国連から生まれた考え方で、Environment(環境)、Social(社会)、Governance(ガバナンス:企業統治)を考慮した投資活動や経営・事業活動のことです。ESG経営とは、目先の利益や評価を追い求めるだけではなく、社会的責任である環境や社会に配慮しながら健全な企業の管理体制を行うことで、企業の持続可能な発展を目指す考え方です。
ESGを重視する企業では、自主的に人的資本の情報開示を行う場合があります。これにより企業におけるリスクの早期発見と対応や人材の確保と維持が期待できます。また、企業の社会的信頼の向上によりESG投資家などステークホルダーの関心を引きつけることができます。
有価証券報告書における人的資本開示義務化では、第一部の企業情報に以下6つの要素を追記する旨が示されています。ここでは各項目の内容や記述例を紹介します。(※参考④)
①人材育成方針
②社内環境整備方針
③1,2の指標・目標
④女性管理職比率
⑤男性育休取得率
⑥男女間賃金格差
人材育成方針は、「第一部企業情報/第2 事業の状況/サステナビリティに関する考え方及び取組/(2)戦略」で示されます。経営方針、教育訓練プログラム、スキルアップ、教育投資などが盛り込まれています。
記述例)「イノベーションと成長を促進するために、優秀な人材の採用と育成を重視しています。そのため、人的資本は企業の競争力の鍵と位置づけています。」
記述例)「1人当たり平均10万円の教育投資を行った結果、資格取得者が前年より20%増加しました。」
社内環境整備方針は、「第一部企業情報/第2 事業の状況/サステナビリティに関する考え方及び取組/(2)戦略」で示されます。組織構造や従業員の健康維持、モチベーション向上の方向性などが盛り込まれています。
記述例)「CEOの下にCOO、CFO、CTOが配置されている組織で、各々に異なる責任と権限があります。」
記述例)「従業員の健康増進のために、定期健診、フィットネス施設の利用、メンタルヘルスサポートを行っています。」
1,2の指標・目標は、「第一部企業情報/第2 事業の状況/サステナビリティに関する考え方及び取組/(4)指標及び目標」で示されます。戦略的目標や年齢、多様性、雇用形態、労働環境、従業員エンゲージメント、離職率などが盛り込まれています。
記述例)「次年度末までに技術部門のスキルセットを30%向上させることが目標です。」
記述例)「従業員の満足度は75%であり、改善すべき内容に『ワークライフバランスの向上』が挙げられています。」
記述例)「年間離職率は8%で、離職者の30%が30歳未満の若手です。」
女性管理職比率は、「第一部企業情報/第1 企業の概況/従業員の状況 等/(4)指標及び目標」で示されます。女性管理職比率のデータや性別の多様性などが盛り込まれています。
記述例)「女性管理職のうち、30%が35歳以下の若手です。」
記述例)「全社員の40%が女性で、女性管理職の比率は15%です。」
記述例)「2030年度末までに女性管理職比率15%を目標としています。」
男性育休取得率は、「第一部企業情報/第1 企業の概況/従業員の状況 等/(4)指標及び目標」で示されます。ワークライフバランスに関する取り組みや成果などが盛り込まれます。
記述例)「男性の育休取得率は、前年度の2%から8%に向上しました。」
記述例)「2030年度の目標として、男性の育休取得率100%を目指しています。」
記述例)「育児休業中の従業員を対象とするリモートワーク制度の導入により、従業員のワークライフバランス改善が図れています。」
男女間賃金格差は、「第一部企業情報/第1 企業の概況/従業員の状況 等/(4)指標及び目標」で示されます。男女間賃金格差のデータや性別、職位などが盛り込まれています。
記述例)「男女別で賃金データを公表し、賃金格差が発生する要因分析を行っています。」
記述例)「管理職や女性社員の意識改革、女性の活躍機会の拡大や登用に取り組んでいます。」
記述例)「女性従業員を対象に『女性リーダー研修』を行い、管理職を目指す女性の支援を行っています。」
人的資本にはさまざまな要素があるため、単に企業理念や経営ビジョン・ミッションで人的資本経営を開示するだけでは十分に情報が伝わりません。まずは有価証券報告書から開示をはじめ、その後は自社の取り組みにあわせて開示内容を充実させると取り組みやすくなります。
ここでは、人的資本経営の状況を開示する場面ごとにまとめるべき内容の例を紹介します。
人的資本の開示義務がある上場企業の場合は、有価証券報告書や四半期報告書に人材育成方針や従業員のスキル向上施策、ダイバーシティ推進などを記載して金融庁や証券取引所に報告しましょう。
人的資本を可視化することで、企業経営に期待されることや投資と競争力のつながりの理解につながります。また、企業の透明性を高めて投資家やステークホルダーに適切な情報を提供することで企業の持続可能な成長にも寄与します。
株主や投資家に人的資本の開示を行うためには、以下に情報を含めて伝える方法が有効です。
従業員の教育訓練プログラムや次世代のリーダー育成に向けた取り組み、働き方改革の成果などを盛り込むことで、投資家の判断材料にできます。
一般のステークホルダーに人的資本の開示を行うためには、以下に情報を含めて伝える方法が有効です。
企業の社会貢献活動や環境保護への取り組み、労働環境の改善状況、地域社会への支援活動、従業員の福利厚生プログラム、環境保護のための施策などを伝えることで、企業の社会的信頼を高めるのに役立ちます。
従業員や求職者に対して、企業理念や経営ビジョン、ミッションを効果的に提示するためには、以下に情報を含めて伝える方法が有効です。
企業の方向性や目標、従業員の成長機会、働きやすい環境づくりへの取り組みなど、価値観や取り組みを伝えることで、企業全体の一体感を高めて離職率の低減を図るのに役立ちます。また、求職者に企業文化への理解を深めてもらい共感を得られれば、優秀な人材の採用に活かせます。
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人的資本を重視して適宜情報を開示しながら経営を行うと、対外的なメリットに加えて社内でも多くの良い影響があるのです。ここでは人的資本の情報開示が人的資本経営に与える影響について紹介します。
人的資本の開示の際には、従業員の能力が可視化されます。人的資本経営では従業員一人ひとりの知識やスキルが客観的に示されるため、本来のパフォーマンスが発揮できる人材配置が可能になります。
また、企業のビジョンやミッション、各部門の目標を達成するために、従業員一人ひとりがどれだけ貢献しているかの明確化が可能です。自身の重要性を実感してモチベーションの向上が図れれば、従業員のスキルアップと成長が促されて生産性の向上につながります。
企業のビジョンやミッション、具体的な取り組みを社内外に共有することで、従業員は共通の目標に向かって協力し合おうという意識が強まります。また、人的資本経営への対応として人材に適切な投資を行っていることを明確化すると「この企業で仕事を進めることが自身の成長につながる」という満足感にもつながります。
その結果、企業への帰属意識や従業員同士の一体感が高まり、エンゲージメントの向上が図れます。
人的資本経営は人材の採用と定着率向上にも有効です。企業の理念や経営ビジョン、ミッションを公開すると、求職者は自分がその企業で働くことの意義が理解しやすくなります。そのため、企業の価値観に共感する人材を引きつけやすくなるのです。
また、企業文化にあった人材を採用できれば、採用後に自身が描いていた就労イメージとのミスマッチが起こりにくく、従業員の満足度も向上します。従業員と価値観を共有することで長期間にわたって企業に貢献する意欲が高まり、定着率向上が図れます。
一定の基準を満たす企業は、有価証券報告書で人的資本の開示を行う義務がありますが、それ以外の企業でも人的資本経営を取り入れるメリットが多くあります。しかし、人的資本を対外的に明示するには、経営戦略との関連づけや指標、目標の設定など十分な準備が欠かせません。
もし、人的資本経営を最短経路で成功に導きたいと考えている場合には、外部の専門家の活用もおすすめです。JOB HUB顧問コンサルティングには、人的資本経営のさまざまな悩みに対応できるプロフェッショナルが多数在籍しています。経験豊富なプロ人材が、期間や頻度、役割などをフルカスタマイズで支援するため、手探りで人的資本経営に取り組む無駄を最小化できます。
企業の規模や業態、立地に関わらず、人的資本経営支援サービスについて気になる方はぜひお気軽にお問い合わせください。
※参考①:内閣府|人的資本可視化指針
※参考②:株式会社東京証券取引所|コーポレートガバナンス・コード
※参考③:経済産業省|「社会の持続可能性の向上と長期的な企業価値の創出に向けたESG情報開示のあり方」に関する調査研究報告書